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1995年〜97年 

 中学校で軟式テニスを始める。


1998年〜2000年  

 弱小、コートのない高校で硬式テニス部キャプテンを務める(同学年は部員2人)。


2001年

 大学に入り、テニスサークルに所属。1年生の前期試験中に以前から見たかったサンプラスを見にウインブルドンへ。
ここで、初めて一眼レフカメラをレンタルで使用。初めての外国で、ひとりで、英語も話せず、センターコートに入るために野宿したりと大変だったが、サンプ ラスにサインをもらえたし、歴史的なフェデラーとの試合をセンターコートで見れて、写真をいっぱい撮って、とてもいい思い出になった。
その後体育会硬式テニス部に入部して、テニスに専念する。


2003年

 パッとした成績もなく、3年になったあたりからこのままテニス部を続けてどこかへ就職するよりも、卒業する前に色んなことを体験して進路を決めたいと考えるようになる。

 ふとしたきっかけでリンクにもあるkids-tennis.comに出会う。これを見て、以前からやってみたかったテニスのコーチをしたくなった。この ころ、kids-tennisの写真を担当されていた、真野カメラマンの影響で、フィルムの一眼レフカメラを初めて購入。

その後悩み抜いた末、部活を辞める。借金をしてサンプラスが出場を予定していたウィンブルドンに再び行こうとするも、直前で出場をキャンセルしたため、 チェコのワールドジュニアに切り替える。そこで当時13歳だった錦織圭を主力とする日本男子が準優勝、写真がテニスジャーナルに掲載される(ただし、読者 投稿欄)。ワールドジュニアの後もドイツ、フランス、スペインなどを1ヶ月間放浪。テニス観戦とテニスクラブ見学に時間を費やす。

 その後、帰国してテニスクラブへアシスタントコーチとして、アルバイトを始めるも、技術不足、性格、その他いろいろで向いていないことを認識。


2004年

 少しずつテニスコーチも慣れてきたが、あまり楽しくない。

8月、再びワールドジュニアに行って写真の楽しさ、観戦の楽しさを再確認する。この両方を仕事にできる、魅力的な仕事をしたいという夢が膨らんでいった。カメ ラマンを目指すことにして、帰国してからテニスコーチを辞める。

 どうすれば取材パスをもらえるかわからなかったので、機材を揃えるためにアルバイトしながら一般の大会の写真を観客として観戦しながら撮影を始め る。ひょんなことからテニスの大学王座、室内インカレのオフィシャルカメラマンになる。初めて写真が雑誌に記事として掲載される。就職活動は一切せず大学 を卒業。


2005年

 8月に三度チェコ、スロバキア、ポーランド、などへ放浪。チェコの大会で奈良くるみを要する日本女子が準優勝し、雑誌に写真が使われる。


2006年

 3月から土日祝日に少年野球、少年サッカーを仕事として撮り始める。

 6月、草津男子国際テニストーナメントのオフィシャルカメラマンとして勤務。この頃から取材パスを多くの大会でもらえるようになる。

    志願してフランス、パリで行われたキッズカップのオフィシャルカメラマンになる。

 8月、チェコ、ワールドジュニアで男子が準優勝、写真が2誌に掲載。


現在

オーストラリアンオープン・フレンチオープン・ウィンブルドン・ジャパンオープン・東レPPOなどプロの大会および日本・ヨーロッパのジュニア大会も積極的に取材中。


 ジュニア、プロ問わずテニスのトーナメントを撮りながら各地を点々と回り、見る人の心を動かす写真を撮り続けながら生活すること。

道は遠いけど、今できることからはじめよう。

この夢が例え敗れても、道が閉ざされても、きっとがんばったことはまた他の夢に挑戦することに役立つだろう。

もしかしたら回り道をして、その結果以前のように全く違う夢にたどり着くかもしれない。

でも今は、後悔しないように、一歩一歩信じる道を歩んで生きたい。



※JETの由来

もともとは「田中」のハンドルネームでインターネットをしていたが、2004年のワールドジュニアに行った時ドイツ在住の濱浦さんに

「ジャーナリストになるなら日本人の名前は覚えられにくいから、ニックネーム付けなきゃ。mannysみたいに・・・・・、JET田中とか(笑)。」

といわれ、その後冗談でJET田中と掲示板に書き込んだらそのまま定着してしまったのが始まり。

ま、田中なんてそこらじゅういるから、区別がついていいでしょ。